生まれてまもない頃に捨てられた子猫。
雨と泥で大層みすぼらしくなったそれを、雨宿りをしようとそこらの家の屋根の下に移動しようとしていたヒバリが発見したとき、それはすでに死にかけていた。
ピクピクとわずかに震えていることでかろうじて生きていることはわかったものの、止みそうにない雨とこの寒さだ、そう遠くないうちに死ぬのだろうと感慨もなく思ったヒバリは、それの傍を通り抜ける。通り抜けかけ、感じた視線についと優雅な仕草で振り向いた。
瞬間、目を開く。
泥で汚れて元の毛の色さえ分からない子猫。最後の力を振り絞って身体を起こしたのだろう、その小さな生き物はじっとヒバリを見ていた。小さな身体に反して大きな瞳の色は琥珀。雨に遮られずに光を放つ両の瞳は、死にかけている生き物とは思えないほど、輝いていた。
知らず見惚れて静止したままのヒバリを呼ぶように、ミゥ、雨の音にかき消されそうなほど小さな声で鳴いた。生後1週間ほどだろうか、まだ言葉を喋ることもできないのだ。
ヒバリはそれに近づいた。鼻の先を小さなそれにくっつけて、生きるかい、と訊いてみる。
不思議そうな瞳。ヒバリの鼻に、触れたそこから息を吸う鼻。ぱし、と一度瞬きをして、子猫は生きるよと返事をするように、もう一度、今度は先ほどよりも力を込めてミャア、と鳴いた。
耳に心地よく響いたそれに、ヒバリは知らず笑みを浮かべていた。
驚いたことに子どもはメスだった。
まだ赤ん坊のせいだろう、メス特有の匂いがしなかったため、しばらく気づかなかったのだ。
汚れをとってやるとでてきたのは蜂蜜色の毛。琥珀色の瞳と相まって陽だまりのようだと思った。
子どもが初めて話した言葉は自分の名前だった。
ひばりさん、と。拙く操るその言葉に、ヒバリは機嫌よく耳を震わせたのを覚えている。よく言えたね、とご褒美に全身を毛づくろいしてあげた。
ヒバリの名前を呼べるようになって、ふとこの子にも名があったほうがいいと思った。ヒバリが、自身をヒバリと名付けたように、この子にも。そうして子猫に名をつけた日。その瞬間から子猫は『それ』ではなく『綱吉』という名をもつ、1匹の子猫になった。ヒバリのものになったのだ。
初めてミルク以外のものを口にした日。初めて爪を研いだ日。子どもの、すべての『初めて』をヒバリはしっかりとその優秀すぎる記憶力を駆使して、覚えていた。
「ヒバリさん、ヒバリさん」
縄張りを見回っている途中、つい先ほどまで一緒にいた馴染み深い声で呼ばれ振り返る。蜂蜜色の毛をふわふわと揺らしながら綱吉は、ヒバリの後を追いかけてきた。
「綱吉。どうしたの?」
挨拶に鼻の頭を舐めてやると、同じように挨拶を返される。
「お留守番をしていてと言っただろう」
「ごめんなさい。でもヒバリさん、オレも一緒に見回りがしたいです」
きらきらと輝く琥珀に漆黒のヒバリを映して綱吉は言う。しっかりと面倒をみたおかげで成長した彼女は成猫というにはいまだ小さく、しかし子猫というには大きい。個人差はあるので断定はできないが、そう遠くないうちに彼女の身体は成長を止めるだろう。どちらにせよ、まだまだ精神的には幼いようでいつでもヒバリの傍にいたがる。
「…仕方ないね」
綱吉に弱い自覚はあった。まだ彼女の記憶がないうちから拾った、ヒバリだけの宝物。
ヒバリに育てられたとは思えないほど警戒心のない綱吉は、ひどくのんびりしていて穏やかだ。
そんな彼女に懸想する輩は腐るほどいて、ヒバリは日々それらを排除するのに忙しい。まだ彼女には発情期が訪れてもいないというのに、だ。
うんざりと息をひとつ落としたヒバリを、綱吉はきょとんとして見る。
「どうしたんですか?」
「何でもないよ」
ふるりと頭を振り、身体を近寄らせると綱吉は喜んでヒバリの肩に頭を置いた。ゴロゴロと咽を鳴らし、嬉しそうに目をつぶる綱吉は文句なしに可愛い。
「さて、行くよ」
「はい!」
促して共に歩く。時折尻尾がヒバリのそれにあたった。ゆらゆら、揺れる尻尾を絡ませたりして、2匹は一緒に。
獰猛さと知性を備えたその美しい生き物。どれほどの人間が、同族が見惚れようともそんな視線など興味がないとばかりに、いやどちらかというと自分の前で群れるな咬み殺すと、そのするどい爪で一刀両断してきた、孤高の王、街を支配する黒猫、ヒバリ。彼が心を許すのは、彼が育てた陽だまりのようにふわふわと温かい琥珀の瞳を持つ猫だけ。そんな彼はすぐ隣に生涯の番いがいるということをまだ、知らない。