遠くで虫の鳴き声が聞こえる。いつもは気にならないそれがむしょうに気に障って、雲雀は苛立ちを込めてしたんと尻尾の先で地面を叩いた。
ビクン、と蜂蜜色の雲雀に比べれば小さな耳が跳ねる。それにしまったと雲雀は顔をゆがめるが、雲雀の視線の先で丸くなったままの綱吉はそれきり身体を起こすこともなく、再び顔をうずめた。
雲雀の位置からは綱吉の後姿しか見えない。雲雀の尻尾を噛み付いて寝床に戻ったきり、綱吉は雲雀を一瞥もしないまま拒絶するようにひたすらに丸くなっている。
綱吉、と何度か呼んでも返事は返って来ず、雲雀は下がりっぱなしの耳に触れた。
もう日が暮れている。いつもなら寝る時間だと言って、雲雀の懐に潜り込んですぐに眠ってしまうのに。
それほど骸と話すことを禁じたのが嫌だったのだろうか。言葉も喋れないうちからずっと一緒にいた雲雀よりも、骸のほうが好きなのだろうか。
怒りにも似た悲しみが湧き上がり、雲雀は地面に爪を立てた。
何度か名前を呼ばれても、振り向くことはできなかった。
雲雀の尻尾に噛み付いたとき、雲雀は驚きの中に痛みを覚えた表情を滲ませていた。彼に守られて育てられた綱吉は、何者にも脅かされることなく生きてきた。それはつまり、武器となる牙も爪も使ったことはないということで。初めての友達の悪口を言われて頭に血が上った、とっさのことだったから噛み付いたといっても血がでるようなひどい攻撃ではなかったけれども、彼を、雲雀を傷つけた、そのことに代わりはないのだ。
胸がぎゅうっと絞られるように、苦しい。初めて置いてきぼりにされたときのような痛み。だがそのときよりも苦しくて痛くて、綱吉は身体を丸めたままぶるぶると震えた。
耳は頭にへにゃりと垂れ下がったまま戻らず、尻尾は縮こまっている。
先ほどまでは何度も綱吉、と呼んでいた雲雀はだが今はもう何も言わない。時折いらだたしげに尻尾が地を叩く音に身体の芯から凍えるような心地がした。もしも今振り返って、怒っていたら、嫌われてしまったらどうしよう。そう思うと怖くてたまらなくて、雲雀を視界に入れることすらできない。
綱吉はきつく目を瞑って、身体を出来うる限り精一杯小さくしてひたすらにじっとしていた。
止まっていた空気が動いた。
雲雀が身体を起こしたのだ。わずかな音も聞き漏らすまいと、綱吉の耳がビクンと立ち上がる。
ふう、と溜め息が聞こえた。
「綱吉」
あきらめと疲れの入り混じった声だった。微動だにしない子どもの後姿を切なげに見つめながら、雲雀は言った。
「もうそろそろ遅いから、そこで眠るといい。僕は出かけてくるから」
綱吉の琥珀の瞳が見開く。唇がわずかに動き、だが何か言う前に再び雲雀が続ける。
「明日の朝はちゃんとご飯を食べるんだよ」
そう言って足音も立てずに歩き出した、その歩を止めたのはかすかな嗚咽だった。
「、綱吉ッ?」
ギョッとして振り向くと、姿勢はそのままで全身を震わせている綱吉の姿が目に入る。
ひいん、とかみ締めることができなくなった泣き声に、慌てて雲雀は綱吉の元へ歩み寄る。
「綱吉、…つなよし、どうしたの?どこか痛い?」
「や…だあ…!きら、に、ならないで…!」
泣きじゃくりながら、近寄ってきた雲雀の胸に飛び込む。驚きに一瞬黒い瞳を瞬かせるが、危なげなく綱吉を受け止めた雲雀は、すぐにひっくひっくと嗚咽を洩らしながらしがみつく綱吉の濡れた目元を何度も舐めてやる。溢れては伝う涙が痛々しい。
「綱吉、落ち着いて。僕が君を嫌いになるわけない」
とても好きだよ、と何度も何度も囁く。
「ほんと…?」
「僕は嘘をついたことはないよ」
頬を摺り寄せると、まろやかな頬は涙のせいで冷たかった。熱を与えるように頬をぴったりとくっつけあう。
すん、と鼻をすすった綱吉は、潤む視界の向こうの雲雀を見つめる。
「…おこって、ない?」
「怒ってないよ。綱吉も、僕が嫌いになってない?」
「! なるわけない!」
綱吉の叫びに雲雀の耳がピンと立つ。ほっとしたように、雲雀は息をついた。
「そう、…よかった」
「ごめんなさ、」
「うん?」
「しっぽ、かんで、ごめんなさい…」
痛かった?と震えながら尋ねる綱吉の瞳が後悔でいっぱいになっているのに気づいた雲雀は、静かに首を振った。
「痛くなかったよ」
「うそ、痛いって顔、してた」
そう言いながら、顔を歪めた綱吉の目に再び涙が浮かび上がる。慌てて雲雀はそれを舐め取った。
「少しだけだよ。傷にもならないくらいだから、大丈夫」
実際綱吉から噛まれるとは思っていなかったから驚いただけなのだ。あの程度の痛みなど、痛みのうちに入らない。それでもしゅんとしたままの綱吉に、雲雀はどうしようかとつかの間考え、
「じゃあおわびに一緒に寝よう」
そうして言った提案に、綱吉はきょとんとした。
「おわび?」
「うん」
「でも、いつも一緒に寝てるのに」
それじゃあお詫びになりませんと、子どもが言うと尻尾がゆらゆらと揺れた。
「うん、だから一緒に寝て、明日は早起きして僕を起こして」
いつも寝坊している綱吉が早く起きて僕を起こさなきゃいけないんだから、おわびになるだろう。そう言うと綱吉ははっと口元を引き締めて、大きく頷いた。
「はい!」
「よろしくね」
しおれていた蜂蜜色の耳が立ち上がっている。おそらく自分のそれも同じなんだろうなと思った雲雀は、綱吉があふ、と大きな欠伸をしているのに口元を緩めた。
ほっとして眠気がきたようだ。
身体を横たえて促すと、素直に雲雀の懐にもぐりこむ。
「おやすみ、綱吉」
「おやすみなさ、…ばりさ、」
言い終わらないうちにすうすうと寝息が聞こえてくる。身体越しに伝わる規則正しい呼吸とぬくもりに、雲雀も穏やかに目を閉じる。
満天の星の下、どこまでも安らかな夢はもうそこまできていた。