「沢田、ちょっといいか」
「はい?」
 
その日、綱吉は偶然廊下ですれ違った草壁に声をかけられた。
 滅多にないことに綱吉は驚く。知らぬ仲ではないとはいえ、挨拶をする程度の間柄である。綱吉の恋人である雲雀の唯一の腹心。敬愛すべき主の最初で最後の恋人。お互いの、お互いに対する認識はそのままある種の尊敬をはらんでいたが、それはともかく。
 同世代の中でも際立って体格のいい彼を見上げながら、話しかけられた内容に、綱吉はきょとんと目をみはり、次いでこくり、とひとつ頷いた。



         ***

 
まろみを帯びたニキビひとつないすべらかな頬が紅潮する。
形を確かめるように、酷薄な唇が触れて撫ぜて、かすかな吐息が頬をくすぐる。じわじわと熱くなるその変化に雲雀はくつりと咽の奥で笑った。唇は温度の変化を敏感に感じとる。

「綱吉?」

後ろからしなやかでけれど見かけによらず逞しい腕に抱き込んだまま、子どもの名を呼ぶ。
身体の奥にまで響く、低く甘い声。綱吉がその声で名前を呼ばれることに弱いと知りつくしている彼は、ぴく、と反応した恋人の頬を柔く食んだ。逆立ったうぶ毛を宥めるように、ちろりと舌の先で舐める。

「どうしたの?」
「、なんでも、ない、ですっ」
「でも顔、赤いよ?」
「オレのことはいいんです…!」

一般の生徒はまず近づかない、恐怖の風紀委員長の住処と化している応接室には、先ほどから甘ったるい空気が充満している。色にするなら、ピンク以外の何ものでもない空気が。
小さな恋人を膝に乗せて、書類を片付けている雲雀はいつになくご機嫌だ。群れを咬み殺したり風紀を徹底させたりすることを嬉々として行う彼は、だが意外にも(あるいは当然というべきか)書類を片付けることを好んではいない。それでも何事も優秀すぎるほどに優秀な雲雀は万事そつなくこなすが、本人の気がのらないため後回しにされることが度々ある。
そのために溜まった書類を前に、唸るのは雲雀ではなく、彼の腹心の草壁だった。
しようと思えばすぐにできるのだからやってください、と内心で草壁が思っていることを、雲雀は知らない。知っていても頓着しないだろう。何故なら後回しにできない最重要な書類は、すぐに片付けるから。ちなみに至急のものでない書類は重厚な机の端に置かれる。
そして、今。雲雀と彼の膝の上に座った綱吉の前には、定規で測りたいほどの書類の山が積んであった。

 うなじまでもを朱色に染めて恥ずかしがる恋人は大層可愛らしく、雲雀の意識を奪う。未だ未発達な少年の身体は華奢で、雲雀の膝に乗せていても何の負担にもならない。
 ふわふわとした蜂蜜色の髪の下、桜の花びらのような所有印がついていることに綱吉は気づいていない。かれこれ一週間ほど前のものだから既に薄くなっている。後でもう一度つけなおさないといけないなどと思いながら、顔を近づけてすん、と匂いを嗅ぐ。沢田家のシャンプーの香りなのだろう、嗅ぎなれた清涼な香りがする。雲雀は目元を弛めてちゅ、と音を立ててそこへ口付けた。綱吉は思わず肩をすくめる。

「ひっ、ヒバリさん!」
「ん?」
「書類! オレにかまってないで仕事をしてください!」

 どん、と机の上を叩く。先ほどと比べれば書類は少なくなっているものの、未だ終ってはいないのだ。
群れ嫌いの肉食動物は、だが番いに対しては肉体的接触もといスキンシップが激しい。気を抜くとうっかり服を脱がされて意識を飛ばされるため、油断できない。
応接室から入るなり、膝の上に乗せられて、退こうにもがっちりと腕を腰に回されてはどうにもならない。
 それでもこれ以上は駄目だ、ときっと意思を込めた琥珀に、やれやれと雲雀は嘆息した。そろそろ意識を書類に移さないと、仕事の邪魔をしているといって綱吉が帰りかねない。

「わかった」

 手の中の万年筆を持ち直し、腕の中に綱吉を抱えたまま左手で紙を持つ。これでやっと安心できるとほっとした綱吉の反応を待っていたかのように、ぽつりと彼は呟いた。

「全部終ったら思う存分遊ぼうね」
「…あっ、あそ……っ!?」

 叫びかけたそれをうるさいと遮り、雲雀は先ほどまでの戯れが嘘だったかのように集中しだした。願ってもやまないそれに安堵しつつ、綱吉の背につう、と冷たい汗が流れる。

 雲雀は一度宣言したことは何があっても覆さない。

 明日体育があるんだけどなあ。遠い目をする綱吉は、気軽に草壁の頼みを利いたことを少し後悔した。



『放課後委員長のところまで訪ねてくれないか。沢田がくれば委員長も仕事が進むと思うんだが』

 そして優秀な腹心の読みどおり、翌日彼はすべて承認済となった書類を渡されることになる。