瞼裏に光る恋
一生のうちに落ちる恋の回数が決まっているというならば、間違いなく自分のそれは一度だけなのだ。
毎日が変わり映えのしない学校生活、家族と過ごす時間、一人でいる時間。その全部が、彼と一緒にいる時間とは比べ物にならないほど長いはずなのに、密度だけが反比例しているようだ。
一週間、一六八時間のうちのたった三時間。それがこんなに待ち遠しくて、苦しい。名前を呼ぶだけ、姿を見るだけで苦しくて目が離せなくて近づきたくてずっと傍にいたくて、拷問みたいだと、思った。
「きみは」
普段は目立たない目尻や口元の皺が、ゆっくりと眼鏡を外して笑うときに少し長くなるのを見るのが好きだ。
この人が今まで生きてきた歳月を感じさせる。節くれだって細い指だとか、右の中指のペンだこだとか(いまやいくら強く抓っても痛みを感じないと言っていた)、額にかかる白髪交じりの髪の毛だとか。そうしたものを見るたびに佳主馬は瞼を閉じないでいる方法はないかと思ってしまう。ずっとこの人を見ていたくて、たまらなくなる。
「どうしてそんなにまっすぐなのかな」
「健二さん」
「まっすぐすぎて、まぶしい」
苦笑じみた笑みを浮かべる彼を、健二をただじっと見つめる。
張り付いたそれが一瞬だけ、かき消すようになくなる。何を言おうとしたのだろう、唇が少し動いて、けれど言葉になることはなかった。くしゃりと髪をかき乱して、鳶色の瞳がこわばった顔をしている佳主馬を映した。
「僕が何を考えているか分かる?」
「…そうやって訊くのが、ずるい」
「そうだね」
「ずっと僕が好きだって知ってた癖に、気づかないふりしてたところもずるい」
「うん」
一見分かりやすい彼の内面には、きっと佳主馬が想像つかない程度には複雑なものが沢山ある。多分佳主馬が彼について知っていることは一面でしかなくて、分かっていてもそれが悔しかった。もっと(全部)見せてほしいのに、健二はそっと心を覆い隠してしまう。
どこまでも優しくてずるい大人、だった。
報われないことなど知っている。知っていて、この恋を抱えることを選んだのは佳主馬自身だ。実際のところ佳主馬に選択肢などなかった。気づいたときには好きで好きでたまらなくて、苦しい。狂おしくて泣きたくなる。
「僕が健二さんと同い年の、女なら好きになってくれた? そうすればそんな顔しなかった?」
「佳主馬くん」
「どうすれば僕を好きになってくれる? …どうすれば僕は、あんたを好きにならずにすんだんだろう」
拳を固く握り締めて、奥歯を噛み締める。荒れ狂う自分の中の炎と対照的に、健二はいつものように穏やかに見える。その分だけ、健二の瞳に移る自分がどうしようもなく滑稽だった。
(まぶしいなあ)
健二はもう一度内心で呟いて、目を細めた。
そう、自分の息子といってもおかしくはない年齢なのだと健二は今更のように思い出す。十七歳なんて、絵に描いたような青春時代ではないか。同じ年頃の女の子と付き合ったり、高校生活を満喫したり。そうしたことが似合うのに彼は、泣きそうな顔で自分を好きだという。今年で五十になった、男である自分を、好きだと。
基本的にあまり人に対して興味を持たない自分にしては珍しいことに、初めて会ったときから好感を持っていた。偶然図書館で知り合ってから、そうでなければ週に一度の家庭教師のような真似事を引き受けたりしない。ましてや初対面の相手などに。そしてそれは二年経っても変わることはなく、しっかりと健二の中に根付いていた。
彼が大人びていたからかもしれないが、年の差が気にならないほどには佳主馬は話しやすい相手だった。そして会うたびに彼の成長が分かるのも楽しい。年の離れた友人と話すのを心待ちにするようになってしばらく経って、健二は佳主馬の瞳に宿る熱に気づいた。始めは気のせいだと思っていたもの。そのうちになくなるだろうと思っていたもの。
日に日に強くなる、自他ともに鈍いと定評のある自分でも勘違いのしようのないそれ。三十三も年の離れた男に持つ感情じゃなかったはずなのに、何かの間違いで生まれてしまったらしい。
そうなってから健二は初めて、困ったなと思った。困った。だって健二は、彼といる時間をとても気に入っているのだ。大切に思っているのだ。変わってしまうのは困る。変わってしまったら、彼は自分のところに来なくなってしまうかもしれない。それは嫌だった。
それなら気づかないふりをしておこうと決めたのは当然のことだった。
健二が内心でそう決めたとき、佳主馬は自分の感情に気づいていないようだったし、このまま気づかないこともあるかもしれない。それに万が一気づいたとしても普通に考えて告白しようとは思わないだろう。
――その考えは、間違っていたわけだけれど。
「佳主馬くん、僕は君が好きだよ」
「…っ」
そんな意味ではないと分かっていても、かっと佳主馬の頬が紅潮する。健二はその変化を好ましく思ってしまう自分に苦笑しながらやんわりと告げた。
「だからこんなおじさんじゃなくて、可愛い女の子と付き合って欲しい」
「! それができればっ!」
「そうだよねえ。…どうする?」
「…どうする、って…」
分かっていたと頷く健二に、声を荒げた佳主馬は勢いをそがれて目を見開いた。
二年ほどの付き合いといえど、健二は健二なりに佳主馬という青年をそれなりに理解しているつもりだ。彼の情が深く、一途なところも何もせずに諦めることをよしとしないところも。
「僕としては、佳主馬くんに数学を教えたり普通に話すのも続けたい。おじさんを好きになるより若くてちゃんと佳主馬くんのことを好きになってくれる女の子と付き合って欲しい」
「っ、だから!」
「佳主馬くん、僕と付き合ってみる?」
「………………は?」
ぽかん、と目も口も丸くして佳主馬が固まる。
数学に関してとんでもない脳みそをもつからだろうか、健二の理論は普段はとても分かりやすいのに、今のはまったく理解できない。理解どころか、今のは自分の聞き間違いではないだろうか。
「け、健二さん、今なんて」
「ん? 僕と付き合ってみる?って訊いたんだけど」
「な、なんで」
「何でってそりゃあ、実際付き合ってみれば違うって分かるんじゃない?」
半開きの窓から入り込んだ風に、一年中かかった風鈴がちりんちりん、とかわいらしい音を鳴らす。
不自然なほどの一瞬の沈黙の後、健二の言いたいことを理解した佳主馬の口が一度開いて、だがすぐに考え直すように閉じられた。
「どうする?」
いっそあっけらかんとした質問。佳主馬は半分恨みがましい気持ちで彼を見た。どんな思惑があれど、好きな人から付き合おうと言われて断れるほど佳主馬は大人ではない。
「…健二さんと、付き合いたい」
「うん、分かった。僕がつけたい条件は一つだけ。違うなと思ったらすぐに別れたいって言うこと」
「……」
「駄目かな?」
「…分かった」
「よかった。期間は分からないけどよろしくお願いします」
そう言って深々と頭を下げる健二に、少し複雑な顔をして佳主馬も同じようによろしくお願いしますと頭を下げた。
ひどく現実味のない、冗談みたいな『お付き合い』はこうして始まりを告げた。
「そういえば、佳主馬くん」
「…なに」
「君は、同性愛者?」
単刀直入にもほどがある。絶句した佳主馬に、はっとして健二は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、いや別に差別するとかじゃなくて、単に知りたいというか」
「………しらない」
「え?」
「こんなに、人を好きになったのが初めてだから知らない」
頬を赤らめながらむすりと口を曲げて言ったその言葉の威力を、佳主馬は知らないだろう。
(あ、あれ?)
どくん、と強く心臓が跳ねる。恥ずかしいのか顔を逸らして唇を噛む伸び盛りの、大人になろうとしている青年をまじまじと見つめる。少し長めの前髪がさらりと揺れる。健二の肌とは比べ物にならないほど健康的に日に焼けた肌が、学生服から覗くのに目が奪われる。何だこの子かわいい。
「う、わぁ…」
「なんだよ」
「いや、なんでも、…うわあ…」
「だから何!」
「………末恐ろしい子だなあ…」
「は?」
「いやこっちの話」
今でこうなら三年後はどうなるのか想像するだけでもすさまじい。苦笑しながら健二は熱くなった頬に気づかれないように立ち上がり、年下の彼のためにお茶を用意することにした。
2010.03.21春コミ配布ペーパー再録
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