10years after


しまった、と我に返ったのは大通りを出て小道に入ってからだった。
うでるような暑さ。街中にいると時折熱気で目の前が歪む。
名古屋とは質が違う東京の夏にももうとうに慣れたけれど、それでも暑いことには変わりない。額にうっすらと汗をかいているのが分かった。もちろん汗をかいているのはそこばかりではなく、ヘッドホンをかけた首と脇の下、背中もそうだったけれども。
佳主馬は何も持っていない方の腕で額を拭う。そして空いていない腕の先、丸々とした緑色の甘い野菜に目をやって苦笑を浮かべた。






お兄さん、ちょっと寄ってかないかい。そう声をかけられたのは、近所の商店街の八百屋の前だった。
それを無視しなかったのは大した理由ではない。特に急いでいたわけではなかったこと、そしてもうひとつ。その声がどこか亡き曾祖母の声に似ていたような気がしたからだ。
立ち止まり、にこにこと穏やかな笑顔を浮かべた老女を見下ろす。
「今日はとても美味しい西瓜が入ったんだよ。もしよかったら見ていかないかい」
炎天下の中、暑いだろうに日射しがあたるところにいる彼女に、これじゃあ熱中症にでもなりかねないと佳主馬は眉を寄せた。
「見てくから日陰に入りなよ。このままだと熱中症にでもなって倒れる」
「おや、悪いねえ」
おっとりとした口調で老女は屋根の下に入る。
彼女の後を追った佳主馬は、色とりどりの夏野菜を視界に入れた。「これだよ、これ」
老女の声に顔を上げて佳主馬は成る程、と微かに頷いた。
綺麗な球体を覆う深い緑色と、その上を走るギザギザの黒。軽く叩けば中身が美味しい証拠特有の音がした。
「ほんとだ。美味しそう」
幼い頃からお盆になると必ず上田へと行っていた佳主馬は、野菜を見る目には多少自信がある。それこそ小学生くらいまではよく陣内家の畑で色とりどりの野菜や果物を収穫したものだ。
つかの間目を細めて懐かしい思い出に浸ってから、もう一度こつんと指先で西瓜を弾いた佳主馬は傍目には分からない程度、口元を緩めた。

「これ、一個いくら?」








佳主馬は手に持った西瓜を、重さを確かめるように一度肩の高さまで持ち上げて、小さく息をついた。大きな西瓜が2つ3つないと足りないような上田の家ではあるまいし、自分たちではけして食べ終わらないだろう。(半分に切ってもらえばよかったかな)
言えば切ってくれたかましれないのに。だが今さらだ。来た道をひきかえすには、流石に西瓜は重い。
「…ああ、余れば道場の子どもたちにあげればいいか」
子どもというのは総じて西瓜が好きな生き物だ。そうすれば余ることはないだろう。
一人頷き、佳主馬は小さく笑った。勿論あの、いつまでたってもどこか子どもじみたところを残すあの人とて例外ではないのだ。
小道を出るとすぐ目の前に2階建てのアパートが見えた。年季が入ったそこは、階段を登るとカンカン、と響く。無意識にリズム感のある音がどんどん感覚を狭くする。佳主馬は階段の一番手前にある扉の取っ手に手をかけた。思っていたとおり鍵のかかっていなかった扉は容易に開く。足を踏み出し、後ろ手に取ってを掴みながら彼は口を開いた。




「ただいま、健二さん」









10年後の夏。

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