「……もう一回、言って」



佳主馬は呆然として、目の前の人を見つめた。切れ長の瞳があまりの驚きに大きく見開かれ、足元には洗剤だとかシャンプーだとかが散乱している。その言葉を聞いた瞬間に彼の手から落ちたビニール袋から零れ落ちたものだ。それすらも気づかない佳主馬に、ぱちぱちと目を瞬かせて彼女、池沢健二、旧姓小磯健二は喜びを白い頬を桜色に走らせた。口元をほころばせて嬉しそうに頷く。

「今、三ヶ月なんだって」

そうっとまだ膨らんでいない自身の腹を撫でる。その動作に胸が熱くなり、佳主馬は何事か言おうと口を動かし、だが言葉にならず、かわりにぎゅうっと健二を抱きしめた。
「わ、」
「……健二さん、」
突然の強い抱擁に驚く健二の頭に顔を埋めて、ぽつりと佳主馬が名を呼ぶ。人生の半分を焦がれてきた人の名前を。その声は小さく掠れていて、けれど健二はしっかり聞き取る。
「うん」
「………うれしい、」
ありがとう、と。ぐもった声に健二は佳主馬の広い肩に額を押し付けた。
「僕も、うれしい。家族が増えるんだね」
家族という言葉に、佳主馬はああそうかと彼女の心情に思いをはせた。仕事で忙しく、またけして仲の良いとはいえない両親をもった健二は昔から家族というものに憧れていた。
(僕と健二さんの、子ども)
じわりと実感が湧いてくる。どんな子が生まれるんだろう。男の子か女の子か。想像しようとしてもうまくいかない。むずむずとした口元をきゅっと締め、健二を抱いた腕に力を込めた。
「か、かずまくん、くるしい」
「、ごめん」
慌てて力を緩めると、ほうっと息を吐いて健二は佳主馬を見上げた。へにょりと笑うその顔はいつもと変わらないようでいて、やはりどこか違う。母親になろうとしている、女性のものだった。佳主馬は腕を解いて、こくりと息を呑んだ。おそるおそる彼女のお腹に触れた。
「ここに、いるんだ」
「そうだよ」
「…動かないね」
「そりゃあ、まだ3ヶ月だもん」
当たり前といえば当たり前の佳主馬の言葉にころころと笑う。
まだこんな小さいよ、と人差し指と親指の先で隙間を数ミリ作ってその小ささを強調した。
それからふと佳主馬の足元を見て、あ、と声を上げる。健二の視線の先をたどり床に転がったものに気づいて、佳主馬は腰をかがめてそれらを拾った。ビニール袋を持ち上げて、その中を覗きながら、しまったと呟く。
「卵入ってた」
「えええっ!?わ、割れてないかな?」
「どうだろう」
「ごめんね、部屋に入ってから言えばよかった」
買い物から帰ってきたばかりの佳主馬に、何よりも先に知ったばかりの吉報を知らせたかったのだ。
佳主馬は首を振って玄関に靴を脱ぎ捨てた。そう、ここが玄関だということすら忘れていた。とりあえず買ったものを仕舞わないと、とリビングに向かいながら佳主馬が口を開く。
「名前はどうしよう」
「うん!男の子と女の子、両方考えようね」
気が早いかもしれないかもと思ったが、同じように楽しげな年上の奥さんの様子にそんなことはないかと思い直す。
「あ、佳主馬くん!お義母さんたちにも知らせないと」
買ったものを仕舞って一息ついた健二ははっとした。言うなり携帯電話を取り出して発信ボタンを押す前に、佳主馬はちょっと待ってと彼女を止める。普段はどちらかというとおっとりしている健二の性急な動作に苦笑する。人のことは言えないが、彼女もだいぶ浮かれているようだ。
「どうせ来週上田に行くんだから、そこで言えばいい」
「そっか、そうだよね」
もともとお盆で帰省する予定だったのだ。親戚全員集まっていることだしちょうどいいだろう。大ばあちゃんにも報告しないといけない。
これから忙しくなるな、と思いながら佳主馬はソファに座りながら健二を抱き寄せた。佳主馬に馴染んだ健二は抵抗することなく身をまかせ、しっかりと鍛えられた背中に華奢な腕を回す。桜色の唇が弧を描き、誘われるままに顔を寄せ――。











――くん、…ずまくん。

柔らかな声に緩やかにうっすらと目を開いた佳主馬は、ぼやけていた視界が焦点を結ぶのと同時にはっとした。周囲はうっすらと暗く、頭上にあるパソコンが唯一納戸に光を与えていた。健二は佳主馬を覗き込みながら、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんね、起こして。もう夕飯の時間だから、呼びに来たんだけど…」
健二の声にかぶさるように遠くからざわめきが聞こえる。大人たちの笑い声に、子どもたちの叫び声。
佳主馬はむくりと身体を起こした。
「先に行ってて。すぐ行くから」
「うん、分かった」
こくりと頷いた健二はそのまま納戸から出て行く。彼女の姿がなくなるまでじっとしていた佳主馬は、手のひらで口元を覆った。どくどくと心臓が忙しない。全身の血が逆流するような感覚に息がつまる。
「…夢、だったのか…」
零れた言葉には失望の響きが篭っていた。リアルすぎて現実だとしか思えなかったのに。
嬉しそうに子どもができたと告げたときの、健二の笑顔。溢れんばかりの喜びと愛情に満ちていたそれに、どれほどの幸福を覚えたか。あれを、ただの夢として片付けるなんて、

(そんなこと、できるわけない)

ぐ、とこぶしを握り締める。その手は夢の中とは比べ物にならないほど子どものもので、佳主馬は一抹の悔しさを覚え、だがそれがどうしたと目に力を込めた。これから、が勝負だ。
一度決めたとこはけして翻さない陣内家の血をしっかりと受け継いだ少年は、決意新たに立ち上がる。
ゆったりとした足取りで騒がしい夕飯の輪に向かうと、健二を探すといつもの席に座っていた彼女と目が合い、こっちこっちと隣の座布団を叩いた。どうやらあらかじめ空けてくれていたらしい。
見ているものを幸せにさせる笑顔に、無意識にかすかに口元をほころばせながら佳主馬は健二の元へと一歩を踏み出した。









未来へと進む一歩。