「健二くん、今暇?」

にこやかな笑みを浮かべた夏希が、ちょいちょいと健二を手招きした。
「あ、はい。なんですか?先輩」
きょとんと小首をかしげた健二は、手にしていたボールペンを床に置くと立ち上がり、彼女へと近づく。ちょうど数式を解き終わったところだったのだ。
「………夏希先輩?」
だが目の前で口元を手にやり、じっと健二を――正確には健二の服を見定める真剣な眼差しに、健二は無意識のうちに後ずさろうとする。…しようとして、だがそれは夏希の手に阻まれた。がしりと健二の腕を掴んだ夏希は、にっこりと学校一の美少女にふさわしい満面の笑顔でこう言った。


「ちょっといい?」










軽快な音をたててキーボードを叩いていた指が、ふと止まる。画面上ですばやく動いていた彼のアバターも同時に静止した。佳主馬はちらりと後ろを見て、すぐに視線を画面上に戻す。別に気になったわけではない。ただいつもだったらこの時間にはやってきて隣で佳主馬のアバターであるキングカズマの試合を見るのに、来ていないから。そう、それだけだ。
OZ内で最も有名であるといっても過言ではない――ましてや先日のラブマシーンとの戦いで英雄視されるようになった――キングカズマを遠巻きに見ているアバターたちがうっとおしい。佳主馬はその場から立ち去ろうとキーボードを叩きかけ、だがすぐに思い直してログアウトをした。
咽が渇いたから水でも飲みにいくだけだ。自分自身に言い聞かせていることを自覚しないまま納戸を出て台所へと向かうと、女衆のいつものように騒がしい声が聞こえてくる。だがその中に聞き覚えのある声が混じっていることに気づいた佳主馬の、眉間のしわが寄った。










「何、してんの」

尖った声が背中からして、健二はひいっと肩を上ずらせた。
「あら、佳主馬。ちょうどいいところに来たわね」
「ラッキーよ、あんた」
何がラッキーなものか!健二はあわあわと慌てふためきながら行き場のない手を握ったり開いたりを繰り返した。後ろが振り向けない。強い視線って見なくてもわかるものなんだ。初めて知った。
「健二さん?」
にやにやと笑う夏希と直美には頓着せずに、いぶかしげな表情で佳主馬は彼女を呼んだ。
「は、はい…」
おそるおそる、といったようにぎこちなく健二の頭が肩越しを見る。そうじゃないでしょうと夏希は身体ごと健二を振り向かせた。






「……………………」






切れ長の目が見開く。固まった佳主馬を見て、あ、こんな佳主馬くんは初めて見るなあと健二は頭の片隅で現実逃避のように思った。
「ちょっとぉ、何かいうことはないの?」
直美の声にはっと我に返り佳主馬は瞬きをした。いつの間にか手のひらにじんわりと汗をかいている。
「…何かって」
「可愛いとか、似合ってるとか。仮にも男なんだからいうべきことがあるでしょうに」
「か、可愛くないし似合ってもないです!」
顔を真っ赤にして健二が叫んだ。佳主馬はそんな彼女から目が離せないまま、健二が身に着けているものをまじまじと見た。夏希が着ているワンピースと色違いのような淡い水色のワンピースだ。膝丈のそれはふわりとしていて、涼しげで。肩がむき出しになっているため、肌の白さがいっそう際立っていた。

「……っっ!」

かっと佳主馬の日に焼けた頬に血が上る。健二と違い白くはないために目立たないそれを、しかし夏希と直美は見逃さなかった。
「知らないよ、そんなの!」
言うなりくるりと台所をだんだんと床を踏み鳴らしながら足早に出て行く佳主馬を、え、え、と呆気にとられて見送る健二。小さく笑った夏希が、ぽんと健二の肩を叩いた。
「追いかけていけば?」
「え、ええと、でも佳主馬くん、機嫌悪いんじゃ…」
「あれは別に機嫌悪いわけじゃないから大丈夫」
だからいってらっしゃいと促せば、頷いた健二は小走りに佳主馬を追っていく。健二たちが見えなくなった台所の出入り口の柱に寄りかかりながら、ぷはーと煙を吐き出した直美はタバコを片手に天井を見上げた。

「若いっていいわねー」








「か、佳主馬くん…?」
納戸の入り口から顔をだした健二は、パソコンの前に座ったままの佳主馬の背中に声をかけた。ぴくりと肩を揺らした佳主馬は、こちらを向いてはくれない。やっぱり何か起こってるんだろうかと不安に思った、そのとき。
「…なんでそんな格好してるわけ」
「あ、う、うん。…やっぱり似合わないよね…」
夏希先輩の服だし、先輩が着れば可愛いものでも、自分が着ればみっともないだけだと苦笑する健二に、佳主馬がむすっとした顔で振り向く。
「似合ってないなんて言ってない」
「……え」
思わぬ佳主馬の言葉に、ぽかんと口を開けた健二の顔がかかか、とどんどん赤くなっていった。同時に自分の言ったことに気づいた佳主馬がしまったと口元を勢いよく押さえた。
「あ、ありがとう…」
「別に…。…それより、なんで?」
「ええと、夏希先輩が貸してくれたんだ。ほら、僕、ここには彼氏のふりとしてきてたから男服に見えるようなやつしか持ってきてなくて。っていっても、もともと女の子らしい格好なんてしないから、こっちのほうが慣れないんだけど…」
「ふうん」
照れくさそうにはにかむ。そっけなく返事をした佳主馬に頓着することなく、健二は腰を下ろしてパソコンに身を乗り出した。
「今から試合するの?」
「あとでにする」
「そっか」
「ごめん、健二くん。いいかな」
夏希の声に二人同時に振り向くと、納戸の前で夏希がごめんと両手を合わせながら、ウインクをした。
「万理子おばあちゃんも、健二くんのワンピース姿が見たいって言ってるの。ちょっと付き合ってもらってもいい?」
すぐすむと思うから、という夏希に、顔をひきつらせる健二。
「そ、そんな、わざわざ見るほどのものじゃ…」
「見るほどのものよ!可愛いもの!」
夏希はきっぱりと言い切ってから、ほら、行こうと返事を聞かずに健二を引っ張っていく。ドナドナのように引きずられながら健二は、慌てて肩越しに振り向き佳主馬にむかって叫んだ。
「あとで試合見に行ってもいい?!」
「いいよ。待ってる」
「ありがとう!」
嬉しそうにお礼を言って、彼女は連れ去られていった。










「……………何アレ、反則」

ぽつり、呟いた佳主馬はばたんと頭から倒れる。腕で目を隠し、小さく唸る。
あんな、あんなに女の子だなんて、気づかないようにしていたのに。無意識のうちにかけていたブレーキを、青いワンピースがアクセルに代えてしまった。
火照る頬と、コントロールのきかない心臓がうっとおしい。喚きたくなるような心地で、佳主馬はきつく目を瞑った。


「健二さんの、ばか」











瞼の裏にワンピースが翻る。