――じさん、けんじさん、
海の中に漂うような、ふわふわとした意識の中で遠く、声が聞こえる。低く穏やかな声が、近づく。ほわり、心が温かくなるそれにふわりと健二の顔がほころぶ。聴いていると安心して、不安な気持ちが欠片もなくなってしまうような、それは――。
「健二さん、起きて」
→
「……んん、……ま、くん?」
けだるげに目を擦り、瞼を開いた健二を覗き込んでいた佳主馬は小さく笑った。いつもと変わらぬタンクトップに、高校生になってから伸ばし始めた後ろ髪をゴムで軽く結んでいる。成長期の真っ只中にある青年は、健二の頭を優しく撫でた。
「うん、おはよう」
「おはよ…」
ぼんやりと蚊帳越しに咲きかけの朝顔が見える。太陽の光はまだ部屋を照らすにはまだ早い。夜が明けたばかりのようだ。
「ちょっと早く目が覚めたから、ちょっと外でようと思って。健二さんも、来る?」
まあ外っていっても庭だし、眠たいなら僕一人で行くけど。そう言いつつも、こうして誘いにくる時点で健二が断るとは思ってないのではないだろうか。だいたい、健二が佳主馬の誘いを断ることすら滅多にないのに。
「行くよ」
応えながらよいしょと身体を起こす。くわ、とあくびをひとつ。伸びをして、わずかに残っていた眠気を振り払った。
さらりと揺れる長い前髪の奥で、佳主馬の切れ長の目尻が弛む。
(あ、)
佳主馬の健二を見つめる目は、いつも熱い。状況によってその熱の色は変わるけども、今は優しい熱だ。思わず見惚れる、その一瞬を狙ったように、するりと自然に近づいてきた佳主馬の、唇が健二の額に触れた。条件反射で目を閉じる健二を尻目に、軽い音をたてた次の瞬間には彼女から離れて、佳主馬は蚊帳の外へと出て行った。そして縁側に座りサンダルに履き替えながら、肩越しに健二を見やった。
「健二さん、着替えたほうがいいかも」
「?」
「その格好、無防備すぎ」
言われて自分の身体を見下ろす。格好もなにも、普通にパジャマを着ているのだけれど。
きょとんとしているのが蚊帳越しにでも分かったのだろう、佳主馬はがしがしと後ろ手で頭を掻く。
「誘われてる気になる」
「え」
まだわからない?問いかける視線に小首をかしげると、小さなため息が一つ聞こえた。
「胸。下着、つけてないでしょ」
「…………かっ、かかかかかかずまくん?!」
なんてことをいうのだ!真っ赤になる健二に、だから遠まわしに言ったのにと佳主馬は肩をすくめてみせる。そんな発言をしつつも動じない彼が憎たらしい。
「ハヤテのところにいるから、着替えたらそっちに来て」
「…はーい」
ぴんと伸びた背中を見送り、赤い顔のまま健二はもう一度下を見下ろして恥ずかしさに叫びたくなった。セクハラだ!
そりゃあもう裸なんて何度も見せてはいるけれども!それとこれとは違うのだ。
もぞもぞと着替えをしつつそんなことを考える。Tシャツに、ショートパンツ。どこもかしこの肉付きの薄い身体で、いつもと変わらない格好。それでも最近は男に間違えられることが減ってきた健二は、それが年下の恋人の存在が多大に影響しているということを知らない。
蚊帳や布団を仕舞うのは、後ででもいいだろう。手早く着替えを終えた健二は、縁側に無造作に置かれたサンダルを足に引っ掛ける。澄んだ空気はすっきりと爽やかで、健二は深く息を吸った。空気が美味しいという感覚が分かる。身体の中が綺麗になる感じといえばいいだろうか、ただ早朝であるだけではない、この場所だから特別なような気がした。
さて、佳主馬はどこにいるのだろう。ハヤテのところにいると言っていたが、陣内家の番犬は繋がれているわけではない。
(小屋のほうに行けばいるかな)
犬小屋のあるほうへと足を向ければ、すぐにこちらに背を向けて腰を下ろしている青年と、彼に撫でられて気持ちよさそうにしているハヤテを発見した。どちらかといえば細身であるけれど、後姿だけでも鍛えられているのが一目で分かる。足音で健二が近寄ってきたことが分かったのだろう、佳主馬は立ち上がりこちらを振り向いた。
「早かったね」
「着替えただけだから」
「そう。…こっち」
ぐい、と手を引かれる。いつの間にか馴染んでしまった佳主馬の手のひらは大きく、そのくせ指はしなやかで、その先は硬かった。タイピングのしすぎと少林寺拳法の所為だと言っていたのを思い出す。
(佳主馬くんの手は、持ち主そっくりだ)
健二は自身の手を包んだ彼のそれを見下ろしながら思う。器用で熱心で強引で時々意地悪で、その癖優しい。
その器用さは、何もタイピングのときだけでなく――。
ここまで考えた健二はぶんぶんと頭を振った。朝っぱらから何を考えているんだ、僕は!
「健二さん?」
「なっ、なんでもない!」
怪訝そうな声音で名前を呼ばれて慌てて返事をする。頬が赤らんでいるのがバレないように、うつむく。
胡乱げな視線を無視していると、ありがたいことにそのまま放っておいてくれた。
ぱたぱたと尻尾を振って見送るかと思ったハヤテが、二人の行く先が気になるのか後ろから楽しそうについてきた。
→
「あれ、ここ…」
連れて行かれたのは、いつも佳主馬が身体を動かす裏庭だった。自分の知らない場所に行くのかと思っていた健二は拍子抜けする。するとそれを見破ったように、佳主馬が手を離しながら言った。
「うん、裏庭」
佳主馬は流れるような動作でそのまま、すっぽりと腕の中に健二を閉じ込める。はー、と深く息を吐く彼に、瞬きをした。
「佳主馬くん?」
「充電中」
淡々とした声が、肩に顔を埋めている所為でぐもって聞こえる。
(…んん?)
「何それ」
小さく笑い声を上げると、不貞腐れたような声が返って来る。
「だってこのうちだと健二さん独り占めできないし」
わかってたけどね、そう言いながらも口調は納得していないのがありありと分かる。
別に健二が親戚たちと一緒にいるのが嫌というわけではないのだ。騒がしい彼らに囲まれているときの健二は、見ているこちらも嬉しくなりそうなほど、本当に楽しそうに、嬉しそうに笑うものだから。
「納戸でも一緒にいるのに?」
「…気づくと真悟たちも寄ってくる」
ちびっ子だけではない、夏希姉ちゃんとか翔太兄とか侘助おじさんとか理一おじさんとか。なんだかんだで皆この、頼りないけど芯の強い恋人のことを気に入っているのだ。
我ながら心の狭さには呆れる。片思いだったときから変わらなかったそれは、こうして自分だけを見てもらえるようになって尚大きくなったかもしれない。
ごろごろと猫のように額をその華奢な肩にこすり付けていると、健二がなだめるように背中を撫でる。(多少性格的なものもあるだろうが)陣内家に来るまであまり積極的に人とはかかわろうとはしなかった健二は、だんだんと甘えることと甘やかすことに慣れてきた。
佳主馬は顔を上げる。仕方ないから、限られた期間だけ、上田にいる間だけは多少他のやつらに譲ってやってもいい。だけど、
「この時間だけは、俺の健二さんだから」
独占欲が丸出しの、男の顔で言う。みるみるうちに健二の頬が赤くなった。
「…かずまくんってさ」
「なに」
「時々すっごい恥ずかしいこと言うよね…」
「そうかな」
「……………うれしいけど」
最後はこっそりと、聞こえないくらい小さな声で。それでもしっかり聞き取った佳主馬は、思わず健二の唇を奪う。
「!」
丸い目が見開かれる。かまわないでうっすらと開いた口の中に舌を滑り込ませて、健二のそれにきつく吸い付く。
「ん…っ、んん、ぅ」
ぐもった甘い声を心地よく聴きながら(きっとアバターの姿だったら長い耳がぴくぴく動いていただろう)、舌を解放してやってから口腔を探る。粘膜は人の身体の中で最も敏感な場所だという。それは口の中、すらも例外ではない。唇の裏、歯の裏、舌の付け根、触れないところなどないと、我が物顔で蹂躙する。ぴちゃぴちゃと濡れた音に、たまらないと抱きすくめる腕に力を込めた。
「…は、」
最後にぽってりと赤くはれた唇をひと舐め。満足して唇を離すと、つう、と銀色の糸が二人をつなげた。
くったりとした健二の身体を支えながら、空を見上げる。真っ白い雲がところどころ空に流れる。今日もいい天気になりそうだ。
「ねえ、健二さん。明日も起こしていい?」
至極機嫌の良さそうな声で訊くと、ややあってこくりと言葉にはならない了承が返ってくる。佳主馬はお礼に、今度は触れるだけの口付けを彼女に落とした。
たまたま早く起きた翔太が、渡り廊下からその様子を見て口をあんぐりと開けているのが視界の端で見えたけれど、そんなのは佳主馬にとってはどうでもいいことだった。
・ちゃんと二人は別々の部屋で寝ています
・一人称が「俺」になった高校生佳主馬くん
・もちろん健二を追いかけて東京の高校に入学しました