夏休み中の補習ほど面倒くさいものはない。たとえそれが、とっている講義の中で一番楽しいものであっても。必修の為、出席しないという選択肢はなく、佳主馬は本来ならばもう少し滞在する予定だった上田を後にした。もちろん恋人も一緒に。親戚一同は、佳主馬はともかく彼の恋人である、あの夏以来家族の一員として受け入れた健二が帰ってしまうことにえらく不満なようで、再三健二はここに残れば良いお前一人だけ帰れなどと文句を言われた。冗談ではないとしつこい親戚を振り払い、東京へと帰ってきたのだ。





そして、1週間続いた補習の最終日を無事に終えた佳主馬は、残り三週間ほどの夏休みを満喫しようと、開放感に包まれながら足早に健二の住むマンションへと向かった。今は暑さも気にならない。ジーンズの後ろポケットの上から感じる金属の硬い感触に、佳主馬は無意識に頬をほころばせた。健二のパーソナルスペースにいつでも入っていいという証が、そこにあった。
大学院に進む際に実家を出て一人暮らしを始めた(といっても両親と顔をあわせることが少ないため、実質彼女は一人暮らしだったようなものだが)健二は、それからすぐに合鍵をくれた。佳主馬は休みの日には必ず泊まりに行くから、今では半同棲状態の二人である。
エレベーターを待つよりも、自分の足で行ったほうが早い。基本的に待つより動くほうが得意なのだ、自分は。どんなことを考えながら、佳主馬はエレベーターの奥にある階段を使う。まだ日中は節電のために灯りが燈っていない階段の踊り場は夜になると蛍光灯がつくけれど、しばらく取り替えていないのかチカチカとしてうっとおしい。早く。早く会いたい。たかだか1週間会えないだけでこれだ。毎日メールして電話して、OZでも話して。けれど足りない。

(健二さん)

階段を上り終えて、今度こそ後ろポケットから鍵を取り出す。それを差し込んで回すと、外れた音がした。鍵が開いた音は中にいる健二にも聞こえるはずだ。――数式を解いていなければ、の話だが。扉を開けて、いつも言う言葉は決まっている。

「健二さん、た――」
「おかえり、佳主馬くん」

だがひょっこりとリビングから姿を現した健二の姿に、佳主馬の言葉は途中で途切れた。
「思ったより早かったんだね。今日からまた3週間休みだったよね?―――佳主馬くん?」
キイ、と静かにドアが閉まる音がした。
ぽかんと口を開けていた佳主馬は、その音に漸くはっとしてきょとんと自分を見上げる健二に口を開く。こころなしか、おそるおそる、と言った口調。まったくもっていつもの佳主馬からは想像もできないそれで。







「…………けんじさん」







「なに?」
「……………………なんで俺の服着てるの」
佳主馬の、服。正確には、彼が愛用しているタンクトップ。
基本的に一度気に入ったものに対してとことん厭きるという言葉を知らない佳主馬は、夏にはよほどのことがない限り、タンクトップで過ごす。もちろんいつも寝泊りする佳主馬の服が、彼女の家にあるのは当然のことなのだけれども。
「あ、ごめんね。勝手に借りて」
でもこれ涼しくて、と笑うその仕草はひどく可愛らしい。可愛らしいのだが。
佳主馬のタンクトップは言うまでもなく、男物である。加えて成長期の訪れで彼の身長はぐんと伸びて、今や180を超えている。しっかりと鍛えられた身体は、無駄な肉ひとつついていない。つまり、その佳主馬のタンクトップを、160を越えるか越えないかの華奢な体つきの健二が着ればどうなるか。答えは想像するだけで分かる。


(落ち着け俺!健二さんは誘ってるわけじゃないんだから…!)


呪文のように内心で繰り返す。むしろそうだったらいいものを。
佳主馬のタンクトップを健二が着れば、それはワンピースになった。太腿のあたりまで覆う赤いそれの下には、健二が好んで穿くショートパンツの存在があるのだろう。推測の形なのは、それが見えないからだ。加えて、胸元と脇はやはり体格の違いが如実に分かるものが――つまり胸が、見えていた。半分ほどで隠れているため全部が見えるわけではない。それでもちらりと胸元と脇からのぞく、乳房。健二を見下ろしていた佳主馬はその場で悶絶したくなった。
(なんでブラジャーつけてないわけ!?)
どうせうっとおしいからと外したのだろうけど、無防備にもほどがある。据え膳食わぬはというだろうと頭の片隅でもう一人の自分が囁く声を頭を振って振り払いながら、佳主馬は息をつくことで平静を保ちながら(あくまで表情は)、靴を脱いでリビングへと向かう。
「別にいいけど…。もしかして俺が来ない間ずっとそういう格好してた?」
「うん、長野に行ったせいかな。こっち戻ってきたら暑くて暑くて」
長野は暑くても湿気が少なかったもんね、と無邪気に言う年上の恋人はテーブルの上に散乱していた数式が書かれた紙を手早く片付ける。あとで見直すつもりなのだろう、まとめられたそれは無造作にテーブルの端に置かれた。
なんとなく椅子に腰掛ける気分にはなれず、フローリングの床に腰を下ろす。すぐ隣で扇風機が首を回して時折風を運んでくる。クーラーよりも自然に近い温度は、不自然に身体を冷やすということをしないため佳主馬のお気に入りだ。
「あ、そうだ。アイス食べようと思ってたんだ。佳主馬くんも食べる?」
「うん」
冷凍庫を開けた健二は中を覗いて眉を下げた。まだいくつか残っていると思ったミルク味のアイスバーが、一つだけ箱の中横たわっている。ここのところ毎日食べていたのがいけなかった。仕方ないとそれを取り出して、箱だけ折りたたんでゴミ箱に捨てた後に佳主馬の隣に座る。
「佳主馬くん、はい」
「健二さんのは?」
「んー、これが最後だった」
「じゃあいい。健二さんが食べなよ」
「ううん、僕は毎日食べてたし」
「いいから。一口だけ頂戴」
早くしないと溶けるよ、とアイスを押し付けると、ためらいがちに受け取る。ありがとうと言われて、どういたしましてと返すとへにょりと笑った健二はビニール袋を破ってぱくりとアイスを加えた。存外に健二は甘いものを好む。普段から脳を使っている所為もあるのだろう、この家には基本的にチョコレートの類が多いことを佳主馬は知っている。
「おいしい?」
「ん、…あ、佳主馬くんも、どうぞ」
とかじりかけのそれを差し出す。佳主馬は棒の部分を持った健二の手を掴んで、白く冷たいたべものに歯を立てた。甘い。冷たくて咽通しが良くて、なるほど確かに健二が好みそうな味だ。
「おいしいでしょ?」
「うん。…健二さん、」
「? か」
佳主馬くん、と呼びかけた名前は途中で飲み込まれる。突然のキスに丸くした健二の目をほんの1センチほどの距離で覗き込みながら、佳主馬は舌同士を触れ合わせた。アイスに熱を奪われた舌は、ざらりとした感触と同時に甘さとひんやりとした冷たさも感じさせた。うん、やっぱり甘くて、冷たい。確認して満足した佳主馬は、健二の手を解放するのと同時に健二のそれを一度きつく吸ってから唇を離す。佳主馬から仕掛けるキスにしてはあっさりとしている。ほんの少し拍子抜けした健二はきょとんと佳主馬を見る。
「佳主馬くん?」
「健二さんの舌も冷たいのかなと思って」
「…口で言えばいいのに」
「確認したほうが早いでしょ?」
暑さのせいでなくじわりと染めた頬が果実のようだ。普段の冷静沈着な佳主馬しか知らないものから見れば、偽者がここにいる!と叫びそうなことを考えながら佳主馬は無意識に下唇を舌でぺろりとなぞる。咬みたい。舐めたい。身体の奥で獣が必死に我慢しているというのに、愛してやまない当の獲物は緊張感の欠片もない。
健二には気づかれないよう吐いたため息に、ひあ、といつもより高めの声が重なった。
「、どうしたの」
「ちょ、ちょっとまって」
言うなり空いた方の手でタンクトップと身体の間にもともとあった隙間をさらに広くして、自身の胸元を覗き込む。目を見開く佳主馬を尻目に、やっぱり、と健二は眉を下げた。
「アイスが溶けちゃって、落ちたみたいだ」
視線の先から察するに、臍のあたりだろう。すぐそばに置いてあったティッシュ箱に伸ばしかけた健二の手を、佳主馬が遮る。
「え」
なに、と健二が尋ねる前に、佳主馬は彼女の太ももを隠すタンクトップの裾を掴み、がばりとたくし上げた。
「うわっ!ちょ、かず、…んっ」
年中室内にいる健二の肌は、いつだって白い。まして布で隠れるところならなおさらだ。吸い付くようなきめ細やかな腹部に、たしかに溶けた糖分によっててらりと光る道ができていた。誘われるままそこに舌を這わせると、びくんと腹筋が反応するのが分かった。圧し掛かるような佳主馬の体重に圧されてどんどん健二の背と頭が床に近づく。それに気づいた佳主馬は手を伸ばして健二の後頭部を庇いながら、押し倒した。その拍子に健二の手から溶けかけたアイスが離れて、べしゃりと間抜けな音をたてて床にダイブした。
「かっ、かずまくん!アイスが」
「後で片付ける」
「今しようよ…!」
「無理」
「いやいや無理じゃなくて!」
「こんなに挑発されて乗らないなんて男じゃないよ」
「ちょ…っ??!!」
挑発なんてしてないよ!と叫ぶ健二に、してるよと返しながらも佳主馬の手は止まらない。
ぶうん、と音を立てながら扇風機が佳主馬の後ろ髪を揺らす。うなじに浮いた汗が伝うのを感じながら、佳主馬はおいしそうな頬に咬み付いた。










がぶり、
(いただきます)







タンクトップとにょた健二の組み合わせは犯罪。