ふたりごと


この暑い季節と蝉の鳴き声は、切っても切れない関係と思っていい。日本中どこにいてもそれは変わりなく、もちろんこの緑豊かな信州、上田市も例外ではない。ミーンミーン、と何十、何百、下手したらそれ以上かもしれない――命の限り続ける彼らの鳴き声に混じる、耳を澄ましてようやく聞こえるくらいの、何かが弾けるような音。





パチン、パチン





「佳主馬くん?」
縁側の廊下を歩いていた健二は、前方の見覚えのある背中に声をかけた。オレンジ色のタンクトップに、白いハーフパンツ。いつものスタイルの佳主馬は肩越しに振り向く。
「何して…、あ、爪切ってるんだ」
問いかけようとした言葉を途中で飲み込む。近づくと、胡坐をかいた佳主馬の前にはちらしが一枚。そしてそのうえには綺麗な婉曲を描いて切られた爪が数枚落ちていた。右の人差し指に爪きりをあてて、パチン。ちらしの上にまた1枚爪の欠片が落ちた。
健二は佳主馬の隣に腰を下ろす。その間も視線は、佳主馬の手に注がれたままで、佳主馬はわずかに眉を寄せた。
「何」
「いや…なんか意外っていうか。佳主馬くん、そういうの気にするようには見えないから」
爪とか、髪とか。めんどうくさいから放っておくタイプかと思っていた。
佳主馬はその言葉に、意外と自分という人間を理解されていることを知り、内心動揺した。だがれを見破られまいと、いつものポーカーフェイスで淡々と返す。
「爪が伸びると不都合なことが多いんだ」
キーボードを叩くときや、少林寺拳法で相手と組み手をするときであっても。
納得した健二はそっかと頷く。それきり黙った彼に何を言うでもなく、佳主馬は作業を続けた。パチン、パチン。心なしか蝉の鳴き声が遠ざかる。パチン、パチン。いつも騒がしい親戚一同は皆出かけていて、人気のない家で、二人の静かな呼吸と、爪を切る音だけが聞こえる。
最後の小指の爪を切ったところで、それまでじっと佳主馬の指を見ていた健二は、あれと声を上げた。佳主馬は目線だけを上げる。今度は何だ。
「ちょっと両手見せて」
「…」
言われるがまま両手を差し出すと、まじまじと見る。観察するというには熱心な目つきに、若干佳主馬は身体を引きそうになる。
「すごいね、右も左もどっちの爪も綺麗に切れてる」
「…そんなこと?」
「だって見てよ」
と、今度は自分の爪を見れるように床に手のひらをつける。そうしてみると確かに、左は問題なく丸みを帯びて伸びているが、右の爪はところどころ直線に切られていたり、尖っていたりしていた。その中途半端なまま、伸びている。
「これだとひっかいたとき痛いでしょ」
「たまにね」
「貸して」
「へ?」
「手。ついでに切ってあげる」
「え、い、いいよ、悪いし」
「いいから」
ぐいと手首を掴まれる。佳主馬は自分の親指と人差し指とで余ることに眉をよせた。
「健二さんもっと食べなよ。手首細すぎ」
「そうかな。これでも食べてるつもりなんだけど…」
「全然ダメ」
きっぱりと言い放ち、佳主馬は健二の爪を切り始めた。パチン。どちらともなく会話がなくなる。パチン、パチン。自分の爪がきれいにまあるく切られていくその様子に感心しながら、健二はふと思った。
(そういえば、人に爪を切られるなんて初めてだ)
パチン、パチン。
「終わり」
「ありがとう、佳主馬くん」
「別に」
チラシに散らばった爪は、混じりあっていてどちらのものか区別がつかない。くしゃりと纏めて握りつぶす。
健二は両手を広げて、笑みを浮かべた。
「すごい、ちゃんと切れてる」
「簡単だよ、そんなの」
「…慣れてる?」
人の爪を切ってあげるの。訊いてから、それはいやだなあとむっとする。それに健二は驚く。
「まさか。健二さんが初めてだよ」
「そ、そっか…」
ほっとした自分に内心首をかしげつつ、健二はもごもごと返す。そんな健二をじっと見やった佳主馬は、丸めたチラシを持ってしなやかな動作で立ち上がった。
「健二さん、今暇?」
「? うん。見れば分かると思うけど」
あれ、佳主馬くん、機嫌いいのかな。なんとなくそう思いながら、きょとりとした健二を見下ろしながら佳主馬は言った。
「花札でもする?」
「する!」
即答で返ってきた応えに満足げに頷いて、佳主馬はごみ箱に丸めたチラシを捨てた。思ったとおり、テレビの前のちゃぶ台には花札が無造作に置かれていた。それを持ってきて、健二の前に腰を下ろす。
「何賭ける?」
「やっぱり賭けるんだ」
健二は苦笑いする。花札をするたびに、ここの家の人たちときたら何かを賭けないと気がすまないようだ。まだまだ弱い健二はそれに勝てたためしがない。
「じゃないとつまらないでしょ」
「わかった」
きっと顔をひきしめた健二に、佳主馬はにやりと笑う。慣れた手さばきで札を配り、二人の顔が真剣なものに変わった。









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