そして、僕らは認めよう
目が二つあるのに景色が一つしか見えないのは
脳が、二つの世界を嫌うからである。
脳は、複数の情報がずれることを嫌う。
複数の世界を持つことを嫌う。
なので一つを残して消去する。
だから人間はいつまでたっても一つの世界しか見れないのだ。
世界全部が晴れだと思いたくなるような青い空の下、
白い石畳の上に、空の一番高いところから注がれた光が到達する。風は穏やかだ。
それなりに栄えた街の隅っこにある寺は、由緒あるものではあったが、例年参拝する人の数は少なくなっていく。
特にこの季節はお彼岸でもお盆でもなく年始でも年末でもなかった。ただ、ぽかんと開いた休日。人がいるほうが稀である。
事実、今、その寺にいるのは、否
墓石がどこか無秩序にたたずむ道を歩む姿は、一つである。
桶と柄杓を、無造作に、どこかぎこちなく片手に抱えて背筋を伸ばし歩むのは、見るものが見れば即座に悲鳴を上げるであろう少年だった。
黒い髪黒い瞳肌は白い。この気候では少々暑そうな、どこにでもある学生服、学ラン。
墓参りにしては珍しいような、どこか納得のできるいでたちだった。
彼が持っている色はほぼ無彩色だった。にもかかわらず、色鮮やかに見えた。
花を持っていたわけではない。彼の容姿が美しいものだったからだ。
やがて、彼は一つの墓石の前で足を止める。誰かが既に来たのか、花が飾られ、石の表面はてらりと水に濡れて汚れらしきものはなかった。
線香の煙とにおいが風にゆうるり混じる。
少年はじっと、言葉にはできない何かを、見ることに代えて墓石を見る。
その墓には、つい最近、小さな骨壷が納まったばかりであった。もっと言うなら墓石には、一人の名前しか刻まれていなかった。
だから、黒髪の少年が、ここをたずねたのはそのためであろう。墓石の横に彫られている和暦、年齢、そして名前を確かめるように指でなぞり、一つ息を呑む。
「みつけた」
そう、彼は浅く、でもどこまでも響くような声をだした。
****************
名前より先に、彼という存在を知った、その次に、自分が知ったのは、彼への愛情であった。
そして、彼の死だった。
最後は、彼の魂がどこにもないということ。
愛、死、名前、どこにもいない。
それが全てだった。
そう、自分は、彼の生を知らなかったのだ。
***
生まれた西暦、和暦、月日、血液型、出身地、学歴。
そして、死因。
彼のそういった情報を目にする前まで、文字というもののシンプルさを自分は好んだ。好んでいた。
そう、シンプルがすきだ。何に関しても。
雲雀恭弥は、それなりに枚数のある書類をめくっては閉じ、また再びめくっては閉じを繰り返していた。
彼の指は、書類のあるページをめくりかけ、そしてとどまるといったことを繰り返していたのだ。
「綱吉」。その名前で探し出した生前の記録。役所、病院、そして教育機関関係に手を回し、時に振り下ろした結果。
その全てが自分の手元にあるのだ。と、雲雀恭弥は、思ってなどいなかった。
なぜならこれらの書類には、彼の息遣いや声、笑顔、苦しみ、優しさといったものが欠けていたからである。
死因さえ、かたくなに彼を閉ざす言葉でしか書かれていない。
彼は息をついた。それは何度目かの指の動きを終わらせるためである。
「・・・」
彼は書類の最後のページをめくる。
項目名は、彼の実家の住所、そして、――――墓所。
***
彼の母親を一目見て、好印象を抱いた。
そのことに雲雀恭弥は、一瞬思考を停止させた。
火災報知機が鳴りシャッターが閉まる。それに酷似した原因からだと自覚し、舌打ちをしたい気持ちになった。まただ。本当にわずらわしい器官だ。
雲雀は、玄関を箒で掃除する女性を改めて見やる。初めてにもかかわらず好印象を持ったのは、彼が彼女に似ていたからではない。
彼女が彼に似ていたからだ。
彼女はふと、やさしげな面持ちをした顔を雲雀のほうへ向けた。それを見てああと思った。彼女の目をみて、ああと、雲雀は思った。
よかった、どこかでかすかにそう思う。だから雲雀は何も言わずかすかに会釈をした。
掃除をしていた手が、手にしていた箒を落とす。そしてその手は、箒を拾うのではなく、彼女の口元を覆った。
雲雀はそこまでみて、よかったと改めて思いながら、彼女と彼がいた家に背を向けた。
墓所は、少し遠かったから、早く行きたかったし、もう自分にも、彼女にも何も必要は無いと思ったからだ。
火災報知機が鳴りシャッターが閉まった後、スプリンクラーは正常に作動しなくてはならないのだ。彼女はきっと、何度も泣いたのだろう。
けれど、それは、彼の死に関してのみで。
彼が死んでからも、自分のほかに、彼を悼むものがいると知って、泣くことは、無かっただろうから。そう、これで、いいんだろう。安心するといい。
僕はいつか、また彼女に会う。
"母さん、ごめんなさい"
そう、文字として、彼が残した言葉の横に"本当だよ"と、いつか、書くために。
***
墓石の側面に彫られた文字を指でなぞったとき、自分の心臓の音が聞こえた。生まれて、それこそ初めてである。
彼はぼんやりと思う。
いったい、どれだけ、どれだけの人間が自分の心臓の音を、生きているということを知ることができているのだろう。
どれだけの人間、最悪、群れのことを考えてしまった。
自分は、彼への愛情を知り、名前を知り、死を知った。
朝が来て暮れて夜が来てまた性懲りも無く朝が来て、雨が降るたび、そのたび、彼の死を知った。だから、彼の生を知りたかった。
けれどわかっていた。彼が本当に生きていたのは、あの雨の中、
自分と出会っていたときだけなのだと、わかっていた。
そう。ここへ来たのは、悼むためではない。それはさっき、彼の母親にあげた。
ここへ来たのは、うぬぼれるためだ。思い知らせるためだ。
「ばかな、こ」
愛を知り、死を知り、生を知った今、
彼に関して自分が知ることは、ない。
だから、目を閉じた。まぶたを、きつく、シャッターを静かに下ろす。わずらわしい器官に、許可を与えた。
静かにスプリンクラーが降り注ぐ音を、今度は自分の中に聞くために。
****************
少年は、わざと、墓石のてっぺんから、それも柄杓ではなく桶から水を注ぐ。否、ぶちまけたといってもふさわしい勢いだった。
おそらく彼は、墓石にどう、水をかけるのか知っていただろうから、そういうことなのだろう。
それから、桶を持ち上げ頭上に掲げ、底を空に向けた。
彼と一つの墓石と、線香と花と。
何もかもがびしょぬれで、そこだけ雨が降ったようだった。
彼はキリリと目じりを吊り上げ、桶を放り投げた。
かんっ
桶が隣の墓石にぶつかり、わずかにずれる。とがめるものはいない。いたとしても、おそらく、許しただろう。
許して、彼が桶をぶつけた墓石の位置を後で直してやろうと思いながら、立ち去ったはずだ。
一つしか名前の彫られていない墓石。
真っ青な空。
びしょぬれの地面。
少年は二回だけ、墓石に触れた。
おそらく二度と彼はここへ来ないに違いないだろうから、二回とも最初で最後、というべきかも知れない。
なぜなら、墓石に触れた彼の体の部位が、双方ともに異なるからである。
****************
目が二つあるのに景色が一つしか見えないのは
脳が、二つの世界を嫌うからである。
脳は、複数の情報がずれることを嫌う。
複数の世界を持つことを嫌う。
なので一つを残して消去する。
だから人間はいつまでたっても一つの世界しか見れないのだ。
ならば、僕たちは、消去された世界で出会おう。
異なった世界。パラレルワールドで。
雨だけではなく、青空の下でも。
僕らはもうひとつの青空を認めよう ―We will recognize another blue sky―